義経の位牌に記された暗号!! 奥州藤原氏の関係者へ禅師頼然からのメッセージ!

雲際寺 Wikipediaより 

義経の位牌に記された暗号

平泉駅から車で10分ほどのところに雲際寺という寺院があります。

文治三年、義経の北の方が再建したと伝えられる古刹なのですが、

この本堂に、義経の位牌があり、そこにはこんな文字が刻まれています。

~「損館通山源公大居士」~文治五年閏四月二十八日源之義経

これは大変不思議な法名なんです。

法名は、故人に何らかの縁のある文字が用いられるものなのですが、この法名は、義経の勲功とはまるで無縁の文字が連なっています。

文字通り、意味をたどると、

~「館を捨て、山を通って、遁世した。」~

という驚くべき意味です。

遁世とは、「世間から身を隠し、俗事とのかかわりを絶つこと。」という意味です。

この法名は、奥州藤原氏関係者への義経生存・義経北行を伝える暗号である、と考えられるのです。

更に、文治五年閏四月二十八日の死亡を告げている日付が不思議なんです。

「吾妻鏡」「玉葉」が伝える義経の死亡日、四月三十日の死亡日前の日付が、刻まれているのです。

藤原泰衡が義経を攻めて、自害に追い込んだという衣川の戦いは、義経が表向き、この世から姿を消すための、泰衡の仕掛けた偽の戦いで、しかも、藤原秀衡の遺言であり、泰衡と義経はその通りに実行したものだった、と言えるのです。

次に、この位牌を作ったと言われる、当時の雲際寺の住職、禅師頼然についても触れていきます。

「頼然(らいねん)」について

頼然は、文治二年(1186年)、源義経が妻子と従者を伴って平泉へ落ち延びてきた際、同行していた天台宗の高僧の一人で、民部卿禅師頼然と言います。

文治三年(1187年)、義経の北の方の帰依により、頼然が、梅際寺、現在の雲際寺を中興させたと伝えられています。

頼然は、義経を守った三僧侶の一人とも言われていて、衣川の戦いの後、義経の影武者、杉目太郎行信のご遺体がひそかにこの寺に運び込まれ、頼然によって位牌が作られたと言われています。

「頼然」は北行する義経主従に合流していた!

地図上の、北海道の西海岸、積丹半島の付け根に岩内があり、雷電山があるのがわかりますか?

この雷電山山麓が断崖絶壁をなして海に臨んでいるところを雷電海岸と呼んでいて、雷電峠や雷電岬、弁慶の刀掛岩などの景観に加えて、雷電温泉があり、キャンプや磯釣りの適地となっています。

「弁慶の刀掛岩」を始め、弁慶岬、寿都などと隣接したこの辺りは、義経と弁慶の伝説が数多く残されている場所です。

義経勲功記では、「雷電」は「頼然ヶ鼻(らいねんがはな)」という地名になっていて、義経、弁慶に同行してきた民部卿禅師頼然から取られた地名と言われています。

戦前の古い地図には、「来年」という言葉が充てられていて、訛って「雷電」となったであろうと、佐々木勝三・大町北造・横田正二著:「義経は生きていた/成吉思汗は源義経」では推察されています。

頼然は、雲際寺で、表向き、義経と北の方を弔った後、北進する義経一行に合流していたのです。

「雷電」と「弁慶」の組み合わせ地名は、青森にもあった!

青森県の陸奥湾沿い、この辺りは、義経主従の伝説が集中して残されている場所なのですが、野辺地町に「弁慶の足跡」、同じく野辺地町の馬門温泉には、義経主従が湯につかって疲れをいやした、という伝説、浅虫温泉の一駅青森市よりにある野内には義経家臣の鷲尾三郎義久が滞在したことから来ている「鷲尾(わしお)」という地名が残されていたり。

夏泊半島に位置する「平内町」には、小湊から夏泊崎に向かう途中、海岸伝いに、「弁慶内(へっけない)」と「雷電林(らいでんばやし)」という地名が隣接してあります。

「雷電林(らいでんばやし)」は、小湊の白鳥飛来地の近くにある古社、「雷電宮」から来ている地名と思われますが、

「浅所雷電林」「福館雷電林」「東滝雷電林」と飛び地にあり、「東滝雷電林」に至っては、雷電宮から相当離れている所にあります。

さらに「東滝雷電林」のすぐ近い所に「弁慶内(へっけない)」という地名があるので、ここの雷電林の地名は、民部卿禅師頼然から来ているのではないかと考えられます。

鷲尾山

平内町の「白狐塚遺跡」は奥州藤原氏関係者の国内最大級の「経塚」だった!

「東滝雷電林」が頼然の滞在から来ている地名なのではないかの裏付けとして、2017年、平内町小湊字観音にある白狐塚遺跡が、規模的にも国内最大級の、経典を埋めた塚状遺跡「経塚」であることが世界文化遺産平泉(岩手県平泉町)の関連遺跡の調査を進めている発掘調査団の学術調査で分かったのです。

平安時代後期の12世紀中盤ごろのものとみられ、当時、平泉を拠点に勢力を誇った奥州藤原氏が関連する平泉周辺の遺跡から、多数出土した甕(かめ)や壷(つぼ)と同種の破片が、白狐塚遺跡からも発掘されており、規模などからも同氏関係者が関与した可能性が高い。と言われています。

民部卿禅師頼然が来ていてもおかしくない。

「雷電際」という地名は暗号かもしれない!

平内町の雷電宮の川を隔てた対岸の陸奥湾沿いに、「雷電際」という地名があるのですが、今まででしたら雷電宮のすぐ手前の所という意味の地名だと思われましたが、前記を踏まえると、頼然が、北行する義経主従と際会した所、合流したところ、という意味の「際」とも考えられます。

また、頼然が当時、平泉で住職を務めていた「雲際寺」の「際」でもあります。

この地名は、平内町の白狐塚遺跡に来ていた奥州藤原氏関係者により付けられた、頼然と義経主従がここで合流したという、暗号だったのかもしれません。