「敦賀港」は重要な歴史の舞台だった!
みなさんは、日本海側がかつて、「表日本」であったこと。そして敦賀が、日本の港の中で最も古くから国外に開かれた港として著名であったこと。古代より博多と二大海外交流拠点港湾であったことをご存知でしたか?
また、敦賀がかつて、ナチスドイツのユダヤ人迫害により、杉原千畝さん(当時リトアニア・カウナスの領事代理)が「人道」で発給した「命のビザ」を握りしめて、命辛々逃れてきた、ユダヤ難民約6,000人の上陸を受け入れた「唯一の港」であったことをご存知でしたか?
更に、敦賀がかつて、第一次世界大戦で戦場となったポーランドからシベリアに逃れてきたポーランド難民約20万人のうち、ポーランド独立後も、ロシアの内戦で祖国へ帰還できなくて、餓死者も続出し、困窮を極めたポーランド難民孤児763人の上陸を受け入れた「唯一の港」であったことをご存知でしたか?
すごい所だここは!
「敦賀港駅」は「欧亜国際連絡列車」の発着駅って何?
上記写真の左側にある半分見切れている建物ですが、実はこの建物、20世紀の初めに設けられ、東京駅から敦賀港まで直行し、ウラジオストク航路の船のすぐ傍まで乗り入れていた列車、「欧亜国際連絡列車」の明治期の「敦賀港駅舎」が再現されたものだったのです。
「欧亜国際連絡列車」って、航空機のまだ無かった時代の成田エクスプレスみたいな感じですかね。
また、JR敦賀駅に掲げてあった垂れ幕を見た時には、↓
昔、ウラジオストクまで海底トンネル通っていたんじゃない?もしかして。
いや、水陸両用列車が走っていたんじゃない?もしかして。
また、敦賀の町の中に、メーテルや鉄郎のブロンズ像が居たし、まさかこの都市は、見える人だけに見える、「銀河鉄道」の発着駅なのか?
と楽しい妄想が膨らんだりしました。
上記写真は、現在の敦賀市のメインストリートなのですが、車の駐車スペースが、道路に直角になっているのが「珍しいな」と思って撮ってみたのですが。
東京の方だと道路に平行に、歩道に横付けになっている駐車スペースしか見たことがなかったので、この「道路に直角駐車スペース」には「いいね!」って思いました。荷物の搬入もしやすいし、車もたくさん停められるし、出入りしやすいし、合理的だな、と思いまして、大賛成です!
道路広いですよね。
この道路は、明治末に金ケ崎(敦賀港)へ通ずる鉄道路線が変更になったことにより、かつての鉄道ルートを大正時代に、道路に改修し、更に昭和に入り国道となり、戦後に両側は次第に住宅や商店が並ぶメインストリートとして発達していったようです。
かつての鉄道路の用途変更だから広いんですかね。合理的ですね。「いいね!」
「敦賀」の人たちのホスピタリティ文化はどこから?
話は最初に戻るのですが、
ポーランド難民孤児を受け入れた時には、当時の敦賀の人たちは、菓子・果物・玩具・絵葉書など差し入れや宿泊・休憩所を提供するなど、子どもたちにできる限りの温かい手を差し伸べたそうです。
また、ユダヤ難民を受け入れた時には、駅前の時計店の主人が、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため気の毒に思い、彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、台所にある食べ物を渡したり、(後に持ち主に返還されている)また、ひとりの少年は難民に果物の入った籠を持って近づき、無償で置いて行ったこともあったそうです。他にも、銭湯を何日間か貸切って無料で開放したり、手厚い援助の手を差しのべたそうです。
自分たちもそれほど裕福ではなかったと思うのですが、すごい思いやりですよね。
そのたくさんの心温まる感動のドラマが上記写真の「人道の港 敦賀ムゼウム」という資料館に大切に保存されご紹介されています。一つ一つ見ていくと、優に半日は過ぎます。最初から涙出ちゃいます。
是非、皆さんにお薦めします。「人道の港 敦賀ムゼウム」に行ってみてください。
心が本来の自分を取り戻すような、神聖な場所です。杉原千畝さんの肉声も残っていて聞くことができますよ。
実はそれだけではなくて、私自身が敦賀駅のお土産屋さんで、2000円ぐらいの地元のお土産を購入した際に、お店の方に、「コロナの影響で厳しい中、2000円も買ってくださって、ありがとうございます。」と心のこもったお言葉をいただいたり、
敦賀の晴明神社にお伺いした際には、観光協会さんにお電話したところ、月曜日の朝早く、どしゃ降りで私一人だったにもかかわらず、管理人様が鍵を開けてくださって、参拝させていただいて、祈念石も見せていただいて、それだけではなく、その日、三方の年縞博物館に行こうとしていたのですが、けっこうな雨のため、計画変更、その日の私の日程相談にも乗ってくださり、畳に座って、親戚のお家を訪ねてお話しをしているような感覚になったのです。
「客人への思いやり」「おもてなし」が「文化」として敦賀に根付いているような気がして、この「文化」はどこからやってきたものなのか、調べてみようと思ったのです。
①大陸からの「渡来人との関わり」が関与している!
敦賀のホスピタリティ文化の根源は、今から2000年近くも前の古代に遡るのではないでしょうか。
大陸との人間の往来は、弥生時代以前からも常にあったようですが、3世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住してきて、その後、日本に帰化し、農業・蚕産・機織・鍛冶・製陶・建築・土木・医薬・文学・宗教・学問などあらゆる分野で日本文化に貢献した人たち、つまり渡来人が大きく関与しているように思われます。
彼らは、中国での国の争いや、勢力拡大が、朝鮮半島へと余波し、国を追われたり、戦場から逃れたりして来ました。そしてその多くが、日本海側の越前若狭から山陰地方出雲国にたどり着いたのです。
渡来人は、ヤマト政権が、彼らを積極的に受け入れ、彼等の持つ技能ごとに、韓鍛冶部、陶作部、錦織部、鞍作部などの技術者集団を組織化し、技術を国内に定着させるために、各地に住まわせました。また、歴史や文献のなかに出てくることはない、多勢を占める無名の渡来人たちがいて、たどり着いたその場所で生き抜いた庶民たちもいたのです。彼らも地方地域の発展に大いに貢献していったのです。
「福井縣史」には、
~「白城神社・信露貴神社、南条郡今庄村新羅神社は所謂「秦漢百済内附民皆有其祠」と云へる如く、後にその祖先を祀れるものなるべきか。(中略)笥飯浦は即ち敦賀港なり、これ新羅族の先縦を追ふものか。」(中略)「斯くして割合に早くより外来族の渡来移住せるあり、文化の状態一歩を早うせる彼民俗との接触によりて地方開花の度を早うせるは想像し難しからざるなり。」~
と記されています。
渡来人がこの地に至り、彼らが自らの神々を祀ったこと、長い年月の間に在地の人々と混在し、「その優れた文化が伝えられて、地域の進展が早まったこと」が、分かります。
そして、敦賀の人たちにも、渡来人との関わりなしには語れない「歴史的記憶」、また地域住民の底流に「その認識」があることが分かります。(塩瀬博子著:「越前若狭における渡来系伝承の研究」より)
この「歴史的記憶」は、敦賀の人たちにとって、渡来人は、「プラスをもたらした人たち」「尊敬」「親しみ」「感謝」という「好意的記憶」であったのではないでしょうか。
日韓併合に続く日本と東アジアの情勢を鑑みると、彼らを尊重するような、背景を感じるのです。
そして、この「好意的記憶」が、DNAのように、地域の人々に浸透していって、今でも異邦人に対する「親しみ」や「親切」、「思いやり」や「中庸」の精神になって、地域の「文化」として、残っているのではないでしょうか。
②国家の権力に遠い「民間主導の自由な風土」が関与している!
もう一つは、敦賀の風土、北陸の風土が関与していると思われます。
日本海地方の神社名を見ると、越前や能登には、朝鮮国名や大陸の人名関連を思わせる字を直接神社名に付けて残っているものが非常に多くあります。敦賀湾を囲む地域には、神社はもちろん地名に「シラキ(新羅・白城・信露貴・白木など)」を冠する名称が多いそうです。
それに対して、同じ日本海側でも、山陰地方出雲国にも渡来系の神社が多数存在しているのですが、その名称は「玉作神社 同社坐 韓国伊太氏神社」など、地元に祀られている固有の神社に同座という形で、神社名表現されているのです。
この違いは、敦賀を始め越前や能登には、4~5世紀のヤマト政権の圧力が、出雲地方に比べて弱く、律令制制定後においても、その傾向が残っていたことの表れであると考えられます。鉄資源とその生産力の違いで、北陸は中央集権から、さほど関心の及ばない周縁として位置づけられていた、ということが分かります。(塩瀬博子論文:「越前若狭における渡来系伝承の研究」より)
その後も敦賀は、街の歴史は古いのですが、越前国司配下、鎌倉時代の歴代守護配下、斯波氏配下、朝倉氏配下、酒井氏配下と移り変わる中、政庁が置かれた期間は少なく(桃山時代の大谷吉継時代が、敦賀全域を独立統括した唯一の地方政府)、軍勢をもつほどの巨大寺社も無かったため、民間主導の商都の性格が強くなっていったのです。
そのため、地域住民の思想的自由度や文化的自由度が高かったと言えるのではないでしょうか。
上章でご紹介した「福井縣史」の、
~「斯くして割合に早くより外来族の渡来移住せるあり、文化の状態一歩を早うせる彼民俗との接触によりて地方開花の度を早うせるは想像し難しからざるなり。」~
という文章は、大正9年(1920年)に書かれた文章にしては、非常に率直で、ありのままに表現されていて、国粋主義であった当時の風潮に乗じることのない、思想的な文化的な「中庸」を感じるのです。(参考:塩瀬博子論文「越前若狭における渡来系伝承の研究」)
つまり、国家の権力に遠い、「民間主導の自由な風土」の産物として、地域に「中庸」の精神が、宿ったと、考えられるのではないでしょうか。
私は以前、「えちぜん鉄道の駅名が面白い!その由来とは?」というブログの中で、福井県・富山県・新潟県など北陸地方に、「呉音」地名が残存している、というお話を書いたのですが、これもまた、国家の権力の影響の少ない、お土地柄だったからこそ、新しいものに上書きされずに残った、と言えるのかもしれません。
③敦賀のホスピタリティ文化まとめ
渡来人は「プラスをもたらしてくれた人たち」という「好意的」な「歴史的記憶」と、国家の権力に遠く、民間主導の自由な風土のおかげで育まれた「中庸」の精神によって、異邦人に対する、わけ隔ての無い「ホスピタリティ文化」が根付いていった。
という結論になりました。
「敦賀港」が「義を好む」として表彰された!
「義」とは、「人のふみ行うべき正しい道」「人道」「わが身の利害を顧ず、他人のために尽くすこと」を意味していて、「ホスピタリティ」と通じるところがあります。
江戸時代、天明元年(1781)に小浜藩が刊行した『若州良民伝』には、「敦賀港」が「義を好む」として表彰された!ことが記されています。
~「安永 4 年(1775)8 月 6 日に唐仁橋町から起きた火災によって多くの家が焼けた。そのために災いに苦しむ人々が多く、町中の人々が義援をし、松前の「舶估(ふなきんど)や「加州の船頭」なども救済にのりだしたことであった」~
町中で苦しむ人たちを助けようとしていたことが分かります。
更に『若州良民伝』には、
~越前敦賀十間町の坊長(庄屋・名主)に玉川屋八左右衛門という律儀にして「義」を好む男がいました。町内の貧しい者が地小銀(小作料などの年貢)を納められない時は、己の財で助けてやることが度々ありました。元文の年、海路が長期間荒れ、商船の入港することが途絶えたので、港の商いは廃れ、大いに苦しむ者が続出しました。八左右衛門に救いを求める者が押しかけたので、彼は富豪より金銀を借りて救ってやりました。皆、八左右衛門の義に涙を流して感謝しました。八左右衛門が病気になり、坊長を辞めたいと言った時は、もうもうわんさと人が押し寄せ、家中、人々の泣き声で一杯になりました。こんなに人に慕われる男は、ついぞ見たことない、と人々は語り合いました。~
という良民も記されています。
ホスピタリティ=義=人道=中庸=敦賀
「ホスピタリティ」は「義」
「義」は「人道」
「人道」は「中庸」
「中庸」は「敦賀」
とキーワードが全部、繋がりました。
このような町の要素を兼ね備えた「敦賀」に、
① ポーランド難民孤児や、ユダヤ難民の方たちが、やってきたこと。
② 受け入れ唯一の港だったこと。
③ 彼らが敦賀を「天国(ヘブン)に見えた」と語っていること。
「敦賀」は「天国(ヘブン)に見えた」は、必ずしも比喩だけではない。
「敦賀」はまさに、天から選ばれた「人道の聖地」なのではないでしょうか!
敦賀赤レンガ-ノスタルジオラマでタイムスリップ!
上記写真は、古き良き国際都市「敦賀」の町並みを再現したノスタルジックなジオラマです。
大正時代でしょうかね。
真ん中の電気が付いている建物は、旧大和田銀行です。
「千石船」と呼ばれた「北前船」の船主であり、実業家の「大和田荘七」さんが、創立しました。ご子孫には、俳優の大和田伸也さんや大和田獏さんがいるそうです。
経済的にも潤っていたような、幸せな家庭が見えるような、素敵な町でした。
何度も、ジオラマの中に、さながらタイムスリップしてきました。
「ノスタルジオラマ」に皆さんも是非、行ってみてください。
おわりに
「敦賀」は何だか心が温かくなる町でした。
「幸せの町」です。
また、行きたくなりました!