義経北行伝説は真実!三陸鉄道リアス線の旅で出会った意外な人物とは?

三陸鉄道リアス線路線図(三陸鉄道HPより)

東京在住、八戸市出身の私が、東日本大震災から10年という節目の年、その新しい景色を確認したいと思い、三陸鉄道リアス線の旅に出かけました。

八戸市出身でありながら、三陸鉄道リアス線に乗るのは初めてで、たくさんの新しい発見がありました。

その内の一つが、義経様北行伝説の遺構の多さと伝承の多さでした。

そして、「その伝説は伝説ではなく、真実だ!」と確信をしました。

それは、久慈市にある諏訪神社を訪ねた時でした。

🚃久慈🚃 「諏訪神社」の縁起がすごい!

久慈駅で乗り継ぎの時間があったので、震災から10年、久慈市の海が見たいと思い、向かいました。

「久慈の見どころ」で検索していたら、諏訪神社が海を見渡す景色が良いと、出ていたので、タクシーで約10分、諏訪神社で降ろしてもらいました。

タクシーの運転手さんには、「こんなとこ誰も見に来る人いないよ!正月に元朝参りに来るぐらい。」と言われながら、久慈港を見ることが目的だったのですが、

案内看板に書かれてある「諏訪神社」の縁起に、パンチをくらったのです。にょにょにょ~! じぇじぇじぇ~!(※久慈はドラマ「あまちゃん」の舞台)

なんとこの「諏訪神社」、

平泉を脱出した「源義経」主従の追捕を命じられた「畠山重忠」が、陣を張って待ちぶせしていた場所です。

この辺りで「義経」と遭遇。

落ち行く「義経」に同情した「畠山重忠」は、

「義経に当たらないようにっ!」と、諏訪大明神に祈りながら矢を放ったところ、

矢は松の木に当たり、義経一行は、夕闇にまぎれ無事、北へ落ち延びることができたというのです。

その後「畠山重忠」が、その矢の穂先を御神体に、矢がはずれたことを感謝して、お祀りしたのが、

この久慈の「諏訪神社」の起源なのです。

すごくないですか?

この縁起は、多くの事を物語っています!

1つは、

「畠山重忠」といえば、奥州討伐の先陣を務めた武将。その武将が「義経追補」を命じられていること。

1つは、

「畠山重忠」(鎌倉幕府側)の遺構であること。

1つは、

「畠山重忠」らしいエピソードであること。

1つは、

「義経様への敬意」と、「鎌倉の命令の絶対」。その両者の狭間で揺れ動く、「重忠」の思い。

など。

これは真実だ~! と直感しました。

「吾妻鏡」(鎌倉時代を表した歴史書)には描かれていない史実をここに残している。

と感じたのです。

実は私、こちらへ伺う2週間前に、「畠山重忠」様とお会いしておりまして。

というのも、東京都青梅市の御岳山・日出山ハイキングに出かけておりまして、

その際、御嶽神社で、白銀の勇壮な像姿の「畠山重忠」様とお会いいたしました。

赤糸威鎧兜・大袖付を1191年に奉納されているようです。

友人と「誰だ誰だ?畠山重忠様って誰だ?」という話をちょうどしていたものですから。

遠く離れた久慈で、「諏訪神社」の案内看板で「畠山重忠」というお名前を見た時は、最初は「どっかで見たことある名前だな。畠山さんて。」と思っていました。

すぐには記憶が出てこなかったです。しばらくして「あっ!」と思い出し、

「え~~!あの時の畠山重忠さんじゃ~ん!」「な~んで、こんなところで。奇遇ですね~!」という驚きでした。

楽しい「シンクロニシティ」が起こって、私は、「畠山重忠」さんに導かれてここに来たんだなって思いました。

「畠山重忠」様ってどんな人?

前章で、これは「畠山重忠」らしいエピソードであること。を述べました。

そこで、「畠山重忠」様の人柄に少し触れたいと思います。

「畠山重忠」様は、清廉潔白、道理をわきまえた人と言われています。且つ武勇に優れた熱血武士。源頼朝がおこなった数々の戦いで先陣の名誉を賜ります。誠実で思いやりがあり、実直で、分け隔てなく人に接したとされる人格者、率直な生き方や武士として筋を通すあり方、数多くの武勲などから「理想の武士」として称えられた人物です。

1186年に、源義経の愛妾・静御前が、鶴岡八幡宮にて源頼朝の前で白拍子の舞を披露したときには、銅拍子を打って伴奏を務めています。また、当時は「今様」という歌謡が流行しており、「重忠」様は見事に歌えたようです。音楽的才能にも恵まれ、歌舞音曲にも通じた教養人としても知られています。

清廉潔白な人柄のエピソードとしては、

「重忠」様が「謀反の企ての疑い」をかけられた時、取り調べにあたり、起請文(神仏に誓いを立てて書く文書)を差し出すように求められますが、「起請文(きしょうもん)を取るというのは、悪しき者に対してすることである。」「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない。」と言い張った。これによって、頼朝は、すっかり疑念が晴れ、何も言わずに褒美を与えて帰した。というエピソードがあります。

そのほか、

奥州討伐の戦後処理で梶原景時が藤原泰衡の郎党の由利八郎を取り調べたところ、景時が傲慢不遜な態度であったために由利八郎は頑としてこれに応じなかった。

頼朝から、取り調べに当たるよう命じられた「重忠」様は、由利の前に出て、持ってきた敷皮に座って、礼を表してから、「弓馬に携わる者が、敵に捕われることは中国でもこの日本でも常のことで、恥ずかしいことではありません。頼朝様も捕虜となって六波羅へ連行され、伊豆国へ流罪となりました。それでも、よい運にめぐりあい、天下を取ることになりました。」

「今、貴殿は捕虜の身ですが、これから先も悲惨な状況にあるということはないでしょう。貴殿は、奥六郡で武士としての誉れ高く、かねてよりその名を聞いていました。そのため、二人の者が貴殿を捕えた手柄を主張しあっています。」

「貴殿の発言で二人の手柄の有無が決まるのですが、何色の鎧を着た者に生け捕られたのか教えて頂きたい。」

と質問すると、由利は、

「貴殿は畠山殿ですか。礼儀を心得ておられる。先ほどの礼儀知らずの男とは雲泥の差である。申し上げましょう。」と言って、取り調べに素直に応じ、ありのままに話した。というエピソードがあります。(yoritomo-japan.com:傲慢な梶原景時と礼儀を尽くす畠山重忠~捕虜の取り調べ:奥州征伐~より)

「義経」様との接点は?

「義経」様との接点は、

一の谷の戦いで、「義経」様の配下で、逆落としに参戦。馬を傷つけるのは忍びないと、馬を担いでガケを駆け下りたエピソードは有名です。

宇治川の戦いでは、「義経」様が源義仲討伐の成功を後白河法皇に報告する際、指揮官である「義経」様と共に後白河法皇に拝謁し名乗りを上げています。

1181年7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際、「義経」様と共に馬を曳いています。

「重忠」様は、かつて「義経」様の配下だったんですね。だから、心の中では尊敬していたのだと思います。

落ち行く「義経」様に同情し、言わば、矢をわざとはずして、助けたというのも、理解できます。

道理をわきまえた率直な生き方・武士として筋を通す人柄の「重忠」様には、至極当然の行動だったように思います。

🚃島越🚃 まだある!「畠山重忠」様の足跡!

田野畑村総合観光案内所HPより

島越駅から、タクシーで15分ぐらいのところに、その名も「畠山神社」があります。

「畠山神社」の縁起は、

平泉を脱出した「源義経」主従の追捕を命じられた「畠山重忠」が、この地まで来た時、乗っていた愛馬が脚を折って倒れたため、この地に埋め祠を建て、鐙(あぶみ)を供えたのが、この神社の起源なのです。

鐙は神社内に奉納されていましたが、現在は田野畑村民俗資料館に展示されているそうです。

これも、馬を敬う「重忠」様らしいエピソードですね。

「吾妻鏡」について

「吾妻鏡」は、鎌倉時代研究の前提となる基本史料で、今も歴史はこれを前提に判断されています。

「鎌倉時代、初代将軍 源頼朝から第6代将軍 宗尊親王までの6代将軍記で、編纂者は、幕府中枢の複数の者と見られています。

編纂当時の権力者である北条得宗家側からの記述であることや、編纂における参考文献は、右筆の筆録、日記を中心に、北条諸家や縁のある御家人家伝、訴訟の偽文書を含む書類、寺社、公家の記録など、雑多な参考文献の非同時代性から、記述には、編纂者の主観に基づく部分が多いと言われています。

一部には、明らかに編纂時の「曲筆」と見られる部分もあります。

去年、オリエンタルラジオの中田敦彦さん(あっちゃん)が配信している「YouTubu大学」で、「吾妻鏡」には、「初代将軍の 源頼朝の死 に関連する記述が、一切無い」「どう死んだか死因が不明なんです。」「急に話が飛んで、頼朝がいない」「えっ、いないの?」という感じだったそうです。「なんかあったんだろうね。恨みも買っていただろうし」「歴史書にも書けないことが何かあったんでしょうね。」とお話されていました。

このように、「吾妻鏡」は鎌倉幕府の都合の悪い歴史は、記述が無いという体質の書物と言えるのです。

まとめ

久慈の「諏訪神社」の縁起は、次の事を物語っています。

① 奥州討伐の先陣を務めた「畠山重忠」が「義経追補」を命じられていること。

②「畠山重忠」(鎌倉幕府側)の遺構であること。

③「畠山重忠」の性格を表す記録であること。

④「義経への敬意」と「鎌倉の命令の絶対」両者の狭間で揺れ動く「重忠」の思いを表す記録であること。

これらの事より、

この辺りの人たちの「先祖の由書」や「大南部野田領誌」や「諏訪大明神縁起」をはじめとする多くの「古書」や「口碑」「遺構」が、「吾妻鏡」には描かれなかった歴史上の事実を証明している。

「義経北行伝説」は、真実である!

という結論になりました。

その他の義経北行伝説の遺構

「義経」様の正式名は、「源九郎判官義経」という名前なので、「判官」が名称として使われている遺構が多いです。

🚃 鵜住居🚃 中村判官堂 

鵜住居駅 から【車で20分】,鵜住居駅から【バスで30分】+ 中村バス停 から【徒歩10分】

平泉を脱出した義経主従が北へ向かう途中、この中村にある八幡家に宿泊し、その礼として鉄扇と文書を置いていったと伝えられています。その後、同家の先祖が祠を建て義経を祀るようになりました。社殿の中に衣冠束帯の義経公の石像が安置されているそうです。

🚃大槌🚃 法冠神社 

大槌駅 から【車で5分】 

義経一行は中村判官堂から北に向かう際に、大槌にある代官所を避けて船越(現在の山田町)に直接舟で渡るため室浜の山崎家に一泊したそうです。山崎家ではその記念に法冠神社を建立しました。

🚃大槌🚃 宮ノ口判官堂

大槌駅から【バスで20分】

野宿した義経一行をしのんで村人たちが祠を建て「判官様」と呼び尊崇してきたと伝わる。

🚃大槌🚃 駒形神社

大槌駅から【車で5分】

義経一行が金売吉次のいる長者森へ向かう途中、馬を繋ぎ休息した地。それをしのび建立された。

🚃陸中山田🚃 山田八幡宮

陸中山田駅から【徒歩13分】

義経の腹心佐藤継信の長男が山田に居住しており、北行中であった義経が継信の守り本尊であった「観音像」を託した。この観音像がご神体として守られています。

🚃宮古🚃 長沢判官堂

宮古駅から【車で約30分】

義経一行が山田町から十二神山を越え、川目を経て同家に来て宿泊し、一行は「蝦夷に行く」というので、竹下家の先祖がお供を申し出たところ、「世をしのぶ旅なので、多くの供は・・・」と断られた。そこで山の裏に神社を建て義経の石像を安置し、一行の無事を祈願したと言われています。

🚃津軽石🚃 判官神社

津軽石駅から【徒歩10分】

義経一行は、長沢から折壁・大谷池を通りこの渋溜の判官館山に来て、仮の家を建てて一時住んだ(下閉伊郡志)と言われています。地元では館山と呼ばれています。この山の中腹の林の中に判官神社があり、衣冠束帯で有髪で白斑の馬に乗った義経像があります。一行は、八木沢の判官洞(竹下源八宅)、小山の判官松を経て閉伊川を渡り、北へ向かったらしい。

🚃宮古🚃 横山八幡宮

宮古駅から【徒歩10分】

義経一行が参拝した神社である。
義経は神主宅に、他の一行は長床に泊まり北帰行の成功を祈願したようだ。家臣の鈴木三郎重家は、熊野権現の宮家の出身であり、老齢であったので重三郎と名前を変え、ここに残り、同社の神主になったという。(宮古市小山田君沢鶴蔵氏蔵書「横山八幡宮記」「宮古判官稲荷縁起」)

🚃宮古🚃 黒森神社

宮古駅から【車で15分】

義経一行は、しばらく黒森山に籠って行を修め、蝦夷行きの大願を果たすため、般若経六百巻を写経して奉納したという。その断片はいまなお旧家に蔵されている。黒森山は九郎を隠した森、九郎森から転じた名であると言われている。

🚃宮古🚃 判官稲荷神社

宮古駅から【徒歩15分】

黒森山を出て北へ向かった義経の徳をしのび、その甲冑を埋めた上に祠が建てられた。 それがこの判官稲荷神社である。源義経が祭神になっている。(慶長十年の源義時著「宮古判官稲荷縁起)

🚃宮古🚃 判官神社(箱石)

宮古駅から【車で1時間15分】 

義経主従が滞在して鞍馬山から毘沙門天を移して、祀った所と言われている。
祭神は義経で義経が逗留したことを示す各種の棟札があり最も詳しいという。
「観音経、般若経読誦、クロウハングワンヨシツネ大権ゲン之所」(明暦4年3月の棟札)
騎乗する義経と家来の木造が安置されているそうです。

この神社がある所は、箱石地区の判在家にあり、同家は山伏の出で、神社の別当の山名家は、義経の家臣山名義信一族の子孫と言われている。

🚃宮古🚃 判官堂

宮古駅から【車で30分】

義経一行が参詣して写経した般若経を、奉納した神社といわれている。
同村町場の腹帯八幡の別当家は、義経の子を先祖とする佐々木氏で、同村下野には亀井六郎と弁慶が連名で、湯田村の家平あてに書いた借用証文(一杯盛古文書)がある。

🚃譜代🚃 鵜鳥神社

譜代駅から【タクシーで10分】

食料欠乏に悩んだ義経一行が、中村丹後という人に稗二升を借り、証文を残したという。そのお礼に「玉依姫」を祀った社を建立したのがこの神社の起源と言われる。義経が蝦夷入りの成就を祈願した時、金色の鵜があらわれたので、さらに祈念すると神武天皇の父母(うがやふきあえずのみこと・玉依姫)と海神の三神が出現し、安全を顕示したので、この神社を「鵜鳥大明神」と呼ぶようになった。と言われています。

おわりに

三陸鉄道リアス線沿線や、岩手県以北に残る「義経北行伝説」の「遺構」や「古書の記録」や「口碑」は、「義経」様一行や「重忠」様たちが、「その時確かに此処で生きていた」という、時空を超えたメッセージを送ってくれているのだと感じました。そのけなげなまでのサインを愛しく思う今日このごろです。

義経北行伝説に関して、先人の研究者様たちの、地道な踏査や、古書・古文書解読により、たくさんの記録を残してくださったことに、大きな尊敬と、感謝を申し上げます。

「義経」様一行のこの先の北行ルートに関して、また今後、レポートしていきたいと思います。