義経様の目的地は北海道「厚真」!! 厚真は平泉政権の交易の重要拠点だった!
皆さんは、北海道勇払郡厚真町に、12世紀半ば、平泉政権のスタッフや僧侶が送り込まれ、アイヌ民族と和人が共存する世界を創っていたことをご存知でしたか?
それは、ここ10年ぐらいの間の新しい発掘などで、明らかになりました。
厚真町の宇隆Ⅰ遺跡から出土の陶器の壺が、鑑定の結果、平泉を経由して持ち込まれた12世紀第三四半期の常滑窯の壺であることが判明し、出土した壺の口縁部を意図的に打ち欠いて、直立して埋められていることから、経塚の外容器であろうと判断されました。
また、近くに厚真から平取および鵡川にぬける道も通っていることからも、経塚と判断されたようです。
平泉は、「経塚で埋め尽くされた仏教都市」だったので、このことは、厚真の地に、平泉から派遣された仏教を信仰する和人集団、僧侶を含んだ集団が恒常的に居住していたことを物語る明確な物証だったのです。
厚真の遺跡からは、10~12世紀の仏具や高級食器として貴族たちに使われていた佐波理鋺、大陸産のコイル状装飾品、アムール川中流域の靺鞨文化・女真文化に特有な鉄鏃や鉛ガラスのビーズ、豊富な鉄製品なども見つかっており、新しくは、鎌倉時代の刀剣そのものや交易に使われたであろうスタンプ文漆器などが発見されています。
特に、10世紀半ば~12世紀の佐波理鋺の出土は、道央と道東の太平洋側の遺跡に限られ、厚真と平取に集中していて、厚真・平取が北海道太平洋岸交易ルートの結節点かつ集散地で、中心地だったことを物語ると同時に、厚真・平取のアイヌ首長の富と権威を示すものだったのです。
このことは、奥州藤原氏の北方交易が、ゆるやかな管理の元、アイヌ社会を破壊することなく、経済的侵略的なものではなく、和人とアイヌ民族が平和的に共存・共生していたことの証拠となるものなのです。 (斉藤利男著:平泉-北方王国の夢-より)
義経様は、藤原秀衡様に「何かあったら北海道へ行け」といわれていたと聞きます。
腑に落ちた気がします。
義経様一行は新冠に「判官館」を築いた!
義経様は、厚真・平取に程近い、新冠に館を建てたといわれています。
佐々木勝三氏・大町北造氏・横田正二氏著書:「義経は生きていた/成吉思汗は源義経」によると、義経様一行は北海道西海岸を北上し、積丹半島の付け根にある岩内というところから、東へ進み、定山渓、千歳と来て、早来、上鵡川を経て、門別に来て、富川で、沙流アイヌ民の情勢を偵察してみたら、日高国内のアイヌ民族の中心勢力を成している民なので、団結も強く、義経一党と抗争しかねない様子でしたので、衝突を避けて、門別から厚賀、節婦と海岸伝いに新冠にやって来て、館を築いたといいます。
それが、この「判官館」。
実際には、私は雪で行けなかったのですが、この判官館森林公園の南東の端に「判官岬」があって、そっちの方に館跡があったようです。そこからの景色は絶景だそうです。義経様も想いを馳せ眺めていたそうです。
「しかし冬にこんなところ誰も来ないよ。」と周囲の馬たちに言われている気がしながら、判官館森林公園のメイン広場に上ってみたのですが、広くて、こんな居心地の良いところはない、と思いました。
ここで、付近のアイヌ民族を手なずけ、訓練して、沙流アイヌ民の形勢をうかがうことにしたそうです。広いので、訓練するには絶好の場所だな、って思いました。
判官館のすぐ裏側は、優駿のふるさと。サラブレッド銀座なんです。義経様も馬が大好きでしたよね。
新冠のアイヌ民の訓練もできた頃、判官館を後にして、節婦、厚賀、賀張、豊郷、門別と進み、平取地内のハヨヒラまで北上、ここで沙流アイヌ民の抵抗にあい、一戦を交えるに至ったけれども、機会を見て和睦に成功したようです。
義経様はアイヌ民族と仲良くしたかった!
義経様はアイヌ民族と交戦したくなかった、平泉政権の北方交易でお世話になっていたアイヌ民族とは同志であり、仲良くしたかったのだ、と考えられます。
その後、アイヌ民族を教化する政策を取り、農耕技術を教えたり、生活用具の使い方を教えたり、武芸を教えたり護衛をしたりして、アイヌ民族の尊敬を勝ち得たようです。
アイヌ民族の霊場シノタイ(大きな平原の丘)に、沙流コタンの民衆が集まって、天地自然の神オキクルミカムイを崇拝し、木幣(イナウ)を捧げて祀っていましたが、義経様に対しても、衣食住文化の神、ホンカンカムイとして、オキクルミに対するのと同じくらい尊崇していたといいます。
山、水、火、海といった自然の神ばかりの中、アイヌ民族が人間を神と呼んだのは義経様だけだそうです。
義経様の今まで見えなかった一面を見たような感動を覚えました。戦だけじゃない。
平取(びらとり)には、義経神社があります。祭神は、もちろん源義経様です。
義経神社の宮司様のお話しによると、
義経一党は、松前、寿都の方から、千歳、早来を経て、当時栄えていた沙流にやって来た。沙流は雪も少なく食物もあり、人口も多かったそうです。
義経様はこの地にいて、アイヌ民族に粟稗をつくることを教え、のちに樽前山が噴火してアイヌ民族が食物に困った時、義経様が残した粟や稗を火山灰の下から掘り出して食べ、命が救われたそうです。
そこでアイヌ民族たちは、義経様に感謝し、オキクルミとか、ホンカンカムイと尊称してきたようです。
江戸時代、幕府の検視役だった近藤重蔵氏と比企市郎右衛門氏が、東蝦夷を巡視の折、アイヌ民族が義経様を崇拝しているのを知って、義経の像を作らせ、沙流川のハヨヒラの崖に祀ったけれども、沙流川の洪水や氾濫で、お宮もろとも流されたりバラバラになっても、地元のアイヌ民が復元して門別の稲荷神社に保管していたそうです。
明治時代になって前期の太政官が、義経という神は神名帳に無いから義経の神像を廃止しようとしたところ、アイヌの酋長、ペンリウク翁が、義経公は沙流の神であると願い出、再び平取のハヨヒラに移し、その後、明治30年代に今の社地に移し、ペンリウク翁が祭祀いっさいを営んだそうです。
右写真に見られる神社幕に描かれた緑色の「笹竜胆」の家紋が、えんじ色のアイヌ民族独特の文様に包まれている様子が、アイヌの人々の義経様に対する大きな愛を感じました。
私は雪で見られませんでしたが、義経神社の境内の一画に、平取に義経様を祀った、ペンリウク翁を讃える碑もあるそうです。
義経神社から義経峠を越えた、波恵という所にも、義経様の居住地だったとする言い伝えがあるようです。
義経様とその郎党は砂金採りを行った!
平取で逗留していた義経様は、ある日、郎党を集めて、
「これから、何回か山奥に行って砂金採りを行う。」
と指示したようです。
奥州では「砂金」で富を得ていたので、北海道でも「砂金」が採れないか探していたのかもしれません。
第1回目の作戦が平取の村を流れる沙流川上流、第2回目作戦は十勝の本別川の上流で行われましたが、いずれも砂金は見つからず。
第3回目の作戦は、支笏湖の北側、ラルマナイ川へ落ち込むラルマナイ滝の近くで行われ、砂金採りに成功したようです。
郎党の一人が、砂金を2粒見つけて、義経様は、見込みがあるので作業の続行を命じ、翌日も作業を続けた結果、砂金は次々に見つかり、3日間で19粒。一行は意気揚々と平取に帰って来た。という言い伝えがあるようです。
その後、大雪山の山深い渓谷、積丹の山中などでも砂金採りに成功し、財政面で非常に豊かになり、その活動は大きく飛躍していったようです。
義経様は北方交易で富を得る平泉政権のような国を再建したかった!
アイヌ民族の間に、こんな言い伝えがあります。
~「昔、ホンカン様は黄金の鷲を追って、自分の祖先の往来した海路を渡り、ポンルカへ行った。そこは大きな川のあるクルムセ国です。」~
また、ペンリウク翁は、次のように話したといわれています。
~「判官は、後に樺太に攻め入り、アイヌ民族に仇する酋長を殺し、そこよりクルムセの国に渡った。確かクルムセ国とは、昔の粛慎を称する名のこと。」~
粛慎とは、渤海国、靺鞨、高句麗北東部などの中国東北部~ロシア沿海部のことです。
義経様は青森で、「日本中央の碑」に立ち寄っていますが、その昔みちのくから北海道に架けて「ひのもと」というもう一つの日本があり、660年代、満州の北東部または朝鮮の北部を国堺としていたといいます。その「ひのもと」を義経様は意識しておられたのか。
平泉政権の北方交易も、「環日本海北方交易」で、ロシア沿海部と、盛んに交流していたといいます。
金・鷲羽・馬は、平泉政権の富の3本柱。
しかも中国は、現在も世界1位の金の産出国。ロシアも世界3位の金の産出国です。
これを鑑みると、義経様は、北方交易で富を得る、平泉政権のような国を再建したかったのではないか、と考えられます。
平泉の北方交易は今や鎌倉のものですし、厚真・平取ではやはり足が付く。
交易の中心地、厚真・平取から、交易の同志である、商いや武芸や語学に優れたアイヌ民族を連れて、所縁ある大陸の地に向かったのではないでしょうか。
大陸への移動ルート
義経様一行は、北の海の想像以上の風の強さと海流の強さで、下北半島から北海道に渡ることを諦めたり、津軽半島の三厩でも足止めをくらったりしたので、
大陸へは、北上する対馬海流に乗って樺太を経由し、間宮海峡の、樺太とシベリア大陸の間が一番狭い所から、リマン海流に乗って、南下したであろうルートに納得がいきます。
ちなみに私は、積丹半島の神威岬に行った時に、海からの風の強さが尋常じゃなくて、顔は痛いわ目は開けられないわで、長く居られなかったです。いつも風が強いようで、細くて小柄な女性ですと、体を持っていかれるレベルです。
弁慶岬(寿都)は、念西や十三港の藤原秀元から旅の路銀や物資を受け取る場所だったようです。鎌倉が着々と蝦夷地征伐の準備を進めているという情報が入ったりもしたそうです。
義経様は蘇城(スーチャン)に城を築いた!
地図上のロシア沿海部、オリガとナホトカの中間付近に、その昔「ハングワン」という地名があったそうで、ここに、判官義経様が上陸したのではないか、と推測されています。
そして地図上のナホトカの北に、「パルチザンスク」という都市があるのがわかりますか?
ここは、その昔、「スーチャン(蘇城)」と呼ばれた町で、古い正方形の城があり、土着民のタモー族の伝説では、日本の武将が築いた城だと。日本の武将が危険を避けて本国を離れ、ここで蘇生したという伝説から、「蘇城」と名付けられたといわれています。
調べていたら、パルチザンスク市(スーチャン)の現在の市章が出てきてびっくりしました。
このマークは、まさに源氏の家紋「笹竜胆」に見えるのは私だけでしょうか。
更に、
地図上のウラジオストクの近くに、「ウスリースク」という都市があるのがわかりますか?
ここは、その昔、「雙城子(そうじょうし)」と呼ばれ、この町の公園には「義経の碑」と称するものが建っていて、居住する日本人たちは、義経公園と呼んでいたそうなのです。
渤海国の時代は、日本に渡る時の拠点にもなっていた町だそうです。
調べていたら、ウスリースク市(雙城子)の現在の市章が出てきてびっくりしました。
このマークは、まさにアイヌ民族がカムイに捧げる供物であり祭具である「イナウ(木幣)」なのです。
また、この辺りの土着民の間に、
~「昔、日本人が彼地に、砂金を求め黄金を掘り、鐵錆山を開堀せり」~
という言い伝えも、あるそうです。
おわりに
義経様は、北方交易で富を得る、平泉政権のような国を所縁ある大陸の地で再建したかったのではないでしょうか。
スーチャン(蘇城)の土着民タモー族(アイヌ民族とも推測されている)のあいだでは、正方形の城を築いた日本の武将は、その城を娘に譲って、部下をつれ奥地に行き、高位の大将になったと、語り継がれているそうです。
何があったのか。
果たして、義経様は成吉思汗になったのか。
この先の足取りに関しても、レポートしていきたいと思います。
パルチザンスク市にしても、ウスリースク市にしても、ロシアで、なかなか行けるところではないですし、時代や統治国が変われば歴史も上書きされていくのが残念ですが、それだけに先人の研究者様たちの踏査や伝承の記録が貴重なものであるな、と感じました。
先人の研究者様への尊敬と感謝を申し上げます。