奥州藤原氏の夢は時代を越えてメジャーリーグへ!!大谷翔平選手と佐々木氏の関係性!

大谷翔平選手の名前の由来がすごい!

皆さんは、大谷翔平さんの名前の由来をご存知でしたか?

大谷翔平さんは、1994年、岩手県奥州市(旧水沢市)で誕生しました。

奥州市は、2006年に水沢市・江刺市、胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が新設合併して誕生した市で、要は奥州平泉政権のお膝元、源義経ゆかりの地なのです。

大谷翔平さんの名前の由来について、お父様が日刊ゲンダイのインタビューで、

「義経が平泉にいたというのは、このあたりではだれでも知っています。
中国に渡ったとか、北海道に行ったとか、義経伝説もいろいろあって、歴史上のいいイメージがある。
最初は『義経』でもいいかなと思ったんですけど、大谷義経では、いくらなんでも大それてるかなと(笑い)。」

と答えていて。そうです。

大谷翔平さんは、お名前が大谷義経さんになるかもしれなかったんです。

義経北行伝説の足跡を追っている私としましては、WBCの大活躍と相まって大感激してしまいました。

さらに、お父様は、

「もともと翔という字が気に入っていて、はばたくというイメージがある。
義経はなんかこう、身軽で美男子だったと聞いたこともありましたしね。(牛若丸(義経の幼名)は飛んで跳ねて、身軽な動きで弁慶が振り回すなぎなたをかわした。又は八艘飛び)その義経をイメージして「翔」を。
大谷翔でもよかったんですけど、僕が徹でひと文字。これは僕自身が嫌で、上の子2人も、ふた文字にしたんです。
ふた文字にすると、翔平とか翔太かなと。

お兄ちゃんとお姉ちゃんは横浜で生まれたけど、あいつだけ岩手で生まれた。
平泉も近い。なので平の字をもらって翔平と名付けたのです。」

と答えていて。そうです。

大谷翔平さんの「翔」は義経をイメージした漢字。「平」の字は「平泉」の「平」だったのです。

大谷選手がプロとして日本ハムに入団したときには、当時日本ハム監督で、侍ジャパンの監督を務めた栗山英樹監督は、大谷選手の愛称を「義経」にしようと提案したこともあったようです。

北海道にも数多くの義経伝説が残っていますもんね。

メジャーリーグで大谷翔平選手がホームランを打った時に被せられる兜にもつながってきますね。

花巻東高校の佐々木監督の存在

「人生の悲劇は目標を達成しないことではなく、目標を持たないことである」

 米国の教育者ベンジャミン・メイズの言葉。花巻東高校の佐々木洋監督はこの言葉を、関わってきたすべての生徒に伝えているといいます。

「生徒には2つの『目』を大事にしてほしいと思っています。一つは『目的』もう一つは『目標』。どうしてその行動をするのか常に意識してほしい。野球の練習でも普段の生活でも、一つ一つのことを意識しながら取り組んでほしい」

と話しています。

さらにもう一人の花巻東出身の大リーガー菊池雄星投手は、

「監督からは常に目標を大きく持ちなさいと言われていました。入学当初は「甲子園で優勝」、「プロ野球選手」という目標を持っていましたが、ドラフト1位が見えてきた時には、監督から「高卒でメジャーを目指すんだ」と言われました。目標を常に更新し、高みを目指し続けるという点は今も自分の大きな信念としてあり、常に自分の目標、夢は何なのかを考えながら過ごしています」

と、雑誌「Number」で話しています。

大谷翔平選手も目標達成シート(マンダラチャート)を佐々木監督に教わっていますよね。

また、佐々木監督は、

「常に開拓者であってほしいという気持ちから、新渡戸稲造のように太平洋の架け橋になってほしいと言い続けていたのも覚えています」

と話しています。

この言葉は、郷土岩手の偉人、新渡戸稲造の言葉「われ太平洋の架け橋とならん」から来ている言葉で、

「新渡戸のように、菊池にも大谷にも新たな道を歩んでほしい、君たちにはその力があるのだから、そう思っていた」

と。

佐々木監督は、マネジャー、コーチ、教育者、の内、最も重きを置いたのは「教育者」の部分。

野球選手としてだけではなく、人としてどう生きていくか、を今も説き続けているそうです。

義経と佐々木氏のつながり

昔、岩手県宮古市田鎖に佐々木四郎太郎義高という領主がいました。この人は、義経と静御前とのあいだに生まれた子供で、居城跡も残されていることを皆さんはご存知でしたか?

この義経の子供は、吾妻鏡では、由比ガ浜に捨てられたと書かれていますが、吉川英治の「新平家物語」では、安達新三郎が頼朝の命令を裏切って、この嬰児を助けたように書いています。

吉川氏は後に、「空想で書いた」と言っていましたが、その想像が真実と一致していたのです。

田鎖家の家系図、茂市氏(佐々木氏)の家系譜に、この義経の子供が、佐々木四郎高綱の所につれて行かれ、秘密裏に養育されたことが明記されています。

佐々木高綱は宇治川の先陣争いで有名な武将です。源実朝の時代に出家して高野山に入った時、養子としていた義経の子佐々木四郎太郎義高を朝廷に参内させたところ、朝廷の直轄領、奥州閉伊郡を賜ったと記されています。(茂市氏系譜)

田鎖(多久佐里)系図には、閉伊郡で「混」という者が反乱を起こした時、朝命によって閉伊に行き、「混」を討伐、その功績で、閉伊郡の領主となったと記されています。

佐々木四郎太郎義高は、その後、宮古の田鎖(多久佐里)に城を築き、仁政を敷いたと。そしてその子孫はおおいに繁栄したと。

(「成吉思汗は源義経/義経は生きていた」佐々木勝三・大町北造・横田正二共著より)

岩手県は、佐々木姓が非常に多い県で、比率だと全国一です。この義経の子と言われる、佐々木四郎太郎義高の子孫が繁栄している可能性も高いのです。

そうなってくると、佐々木洋監督、佐々木朗希投手もその可能性がありますよね。

奥州藤原氏の夢は時代を越えて

メジャーリーガー大谷翔平選手が自身の名前由来より、成吉思汗にまでなったといわれるミラクル義経にインスパイアされた人物と考えると、その成長に大きな影響を及ぼした人物、そして、かわいい後輩には、義経の血を引く子の子孫の可能性がある人物が配されている状況に、心躍ります。

この大谷選手の活躍は、遡って昔に、源義経が大陸に渡って大活躍したことを暗示しているのかもしれません。

岩手県のメジャーリーガーの数珠繋ぎは、次は、花巻東高・佐々木監督の長男、佐々木麟太郎選手へと繋がれている、といわれています。

奥州藤原氏の夢は、時代を越えて、メジャーリーグに繋がっているのかもしれません。