「釜石の出来事(奇跡)」を導いたものは何?小中学生はどんな津波防災教育を受けていたのか?

皆さんは、東日本大震災で、大きな被害を受けた岩手県釜石市の中で、「釜石の出来事(奇跡)」と呼ばれた出来事があったことをご存知ですか?

当初「釜石の奇跡」と呼ばれていた出来事は、日頃の訓練や防災教育の当然の「成果」、「賜物」であり、「奇跡」ではないということから、「釜石の出来事」と改められたそうです。

「釜石市鵜住居地区」は、釜石市の中でも、最も大きな津波被害のあった地区だったのですが、そんな中でも、釜石東中学生が率先避難者となり、鵜住居小学生がこれに続き、保育園児たちを助けながら、また地域の大人たちをも巻き込みながら、高台を目指し津波から逃れることができました。この日登校していた562人の児童生徒が、全員無事だったのです。

そればかりではなく、釜石市のその日登校していた3,000人近い小中学生のほぼ全員が避難し無事だったのです。

これは、何かあるのでは?と思い、🚃鵜住居🚃に行ってきました。

三陸鉄道リアス線に🚃鵜住居🚃という駅があります。ここで下車して、程近くに、「釜石鵜住居復興スタジアム」がありました。2019年ラグビーワールドカップの試合が行われたり、ジャパンラグビートップリーグの試合が行われたりしています。釜石と言えばラグビーですよね。

また、スタジアムが大槌湾の津波や高潮を防ぐ水門の、すぐそばにある場所で、驚きました。

防波堤工事
水門
釜石鵜住居復興スタジアム(遠目)
釜石鵜住居復興スタジアム
釜石鵜住居復興スタジアム グランド

実はこの場所は、東日本大震災で水没した、釜石東中学校・鵜住居小学校があった場所で、これだけ海に近い場所ながら、登校児童生徒562人が、自主避難で、津波から、無事助かり、「釜石の出来事」と呼ばれた舞台だったのです。

児童生徒たちは、裏山を伝って、下記写真奥に架かっている、三陸沿岸道路「釜石山田道路」の、実際には写真よりもっと向かって左側の方にある、トンネルをくぐって出た辺り、海抜44mの所まで避難したようです。その後、消防団の無線の呼びかけで集まったダンプカーなどに分乗し、4キロ先の避難所へ向かったのです。この道路は、震災のわずか6日前に開通したばかりの道路で、まさに「子供たちの命を救った道路」だったのです。その後も、通行不能となった、地域の人や物資の移動に利用され、地域の孤立を回避した「命の道路」だったのです。

三陸沿岸道路「釜石山田道路」

上記写真の「釜石山田道路」の高さで、海抜25m~30mなので、写真に写っている家々が震災の時には、すっぽり津波に飲まれてしまったことを想像すると、恐ろしさを感じますね。

生徒たちの避難経路

生徒たちは、上記の避難経路のように、まず、津波の押し寄せる最前線、大槌湾から離れる、水平避難を行っています。また、逆流してくる川から離れる、水平避難を行いつつ、やまざきデイサービスのところから、より高台へ垂直避難を行ったようです。

地形的にそうするしかなかったのかもしれませんが、津波が押し寄せる大槌湾からできるだけ離れるという行動は、理想的だと思います。

やまざきデイサービスのところで、津波に追いつかれそうになったことを考えると、避難の「初動の早さ」が功を奏した。と思わざるを得ないのです。

生徒たちは「大津波」が来ることを直感していた!

中学生たちは、揺れの長さから、「プレート海溝型の地震だ。津波が来る!」と直感したそうです。

また、揺れの強さから、「大津波すぐ来る!」と直感したそうです。

訓練では、地震が起きたら校庭での整列・点呼の後、海抜4mの「ございしょの里」へ避難することになっていましたが、中学生の多くは揺れが収まるとすぐに、「ございしょの里」へ走り出しました。

先生も、「点呼はいいから、ございしょに向かって」と生徒を送り出しました。

小学生は、校舎の3階へ集まっていましたが、中学生が避難していく姿や、消防団の呼びかけにより、ございしょの里へ避難を開始しました。

生徒たちが、大津波が来ない訳はないと判断できたのには、理由があって、

釜石の小中学生は、専門家を交えての市の徹底した「津波防災教育」により、「津波のメカニズムを知る」などの「授業」を受けていたので、地震発生時、自ら津波避難行動を判断できるための、知識・理解力を身に付けていたのです。

揺れが長~く続いたら「津波来る」!

東日本大震災では、強い揺れの継続時間は6分以上続きました。(プレート海溝型地震)

長周期地震動は10分間以上と体感される方も多かったです。

阪神淡路大震災では、揺れの継続時間は、20秒から30秒だったそうです。(都市直下型地震)

比較すると、非常に長かったことがわかります。

地震の揺れの長さは、巨大なプレート海溝間のずれ動く時間の長さに因ります。

震度が小さくても、ゆっくりとした揺れが長~く続く場合は、津波に警戒する必要があります。

1896年の明治三陸地震がその例で、各所で震度3程度の地震でしたが、その揺れは5分間も続き、その30分後には、綾里湾で海抜38.2mの高さまで大津波が押し寄せたのです。(最大遡上高)

ちなみに東日本大震災で陸地を駆け上がった津波の最大遡上高は、女川町笠貝島で43.3mでした。

地震継続時間が長いと、マグニチュード(地震の規模)が大きくなる!

マグニチュードは、「断層面の面積」と「変位(ずれ)の大きさ」から求められます。

陸のプレートが海のプレートに引きずり込まれてできるゆがみのはね返りの大きさとその範囲の大きさから地震エネルギーの大きさを表した指標値です。

通常の場合ですが、マグニチュードが1上がると、地震継続時間は3倍になるそうです。

東日本大震災は、マグニチュード9.0

明治三陸地震では、推定マグニチュード8.2~8.5

阪神淡路大震災では、マグニチュード7.2

でした。

津波の高さは、マグニチュードに比例する!

マグニチュードが0.3大きくなると、津波の高さは約2倍になるそうです。

震度が大きかったら「震源が浅い」可能性大→「津波来る!」

震源の深さによって、地表の揺れは大きく異なります。

震源が浅い地震は、強い揺れをもたらします。

プレート海溝型地震では、震源が浅いと、大きな津波ももたらします。

震源の深さが40kmより浅い場合に、被害を及ぼす津波が発生する可能性が高いと言われています。

東日本大震災では、震源の深さ約24kmでした。

震源が深い地震は、海底が変形しにくいため、大きな津波が起きないとされています。

津波はスピードが速い!

震源から近いと、地面は大きく揺れ、震度は大きくなります。

震源が海底で、震源が浅く、震源が陸に近いと、津波の到達時間が速く、揺れが収まってからわずか数分で襲来することもあるそうです。

また、私は八戸市出身で、子供の頃、津波教育を受けましたが、

「津波は沖に白波が見えてから避難しても逃げきれない」「ものすごく速いんだ」

と教わりました。

釜石の当時の小中学生は、もちろんそれを教わっていたのではないでしょうか。

ちなみに、

津波の速度(秒速)は、

ルート√「標準重力加速度 9.80665(m/s2)× 水深(m)」で求められるそうです。

「標準重力加速度 × 水深 」の平方根です。

地域の水深によって異なるそうです。

例えば、水深が100mの場合

ルート√(9.8×100)=31.30 m/s(津波の秒速)

31.30×60=1878 m/m(津波の分速)

1878×60=112.68 km/h(津波の時速)

津波の時速は、約113km/h になります。

水深が10000mの場合

ルート√(9.8×10000)=313.04 m/s(津波の秒速)

313.04×60=18782.4 m/m(津波の分速)

18782.4×60=1126.91 km/h(津波の時速)

津波の時速は、約1127km/h になります。

ジェット機よりも速く、マッハ1と同等ぐらいの速さです。

このような知識は、停電などで情報が入ってこない場合にも、避難行動の動機づけになると思います。

主体的行動を導く「姿勢の防災教育」を受けていた!

生徒たちは、「津波から命を守る三原則」という、言わば、徹底した「姿勢の防災教育」を受けていました。

① 想定にとらわれるな

② その状況下において最善を尽くせ

③ 率先避難者たれ

の三原則です。

「想定にとらわれるな」

端的に言うと、「ハザードマップを信じるな」「ハザードマップ通りの津波が、この次来るとは限らない」「相手は自然であり、想定外のことも起こり得る」「たとえ自宅や学校が、津波浸水区域から外れていたとしても、大丈夫と考えるのは大変危険だ」ということです。

東日本大震災では、地震直後に津波避難したものの、押し寄せた第一波が、防波堤で防げたのを目撃し、防波堤を越える津波はもう来ないと思って、家に戻ってしまった人が、多くいたそうです。その後、第二波、第三波が防波堤を越えてきて、犠牲になったのです。

子供たちは、自らが想定にとらわれていることを自認し、相手は自然で、時として、人間の勝手な想定にとどまるものではないことを理解していました。

東日本大震災では、この教えが、一番の教訓になりましたね。

「その状況下において最善を尽くせ」

「ここまで来ればもう大丈夫」と考えるのではなく、「その時できる最善の行動をとれ」ということです。

生徒たちが、最初の避難所になっていた、海抜4mの「ございしょの里」に着いた時、

住民に「山が崩れ始めている。ここさ居たら死んでしまう!」と助言されました。そして、建物の裏の崖が崩れるのを見た生徒たちは、先生に、「ここじゃだめだ」と言って、さらにその先の高台にある、介護福祉施設「やまざき機能訓練デイサービスセンター」へ避難することを進言しました。

海抜15mの「やまざきデイサービス」まで、無事全員が避難し終えると、そのわずか30秒後、津波は「やまざきデイサービス」の目前まで迫り、迫りくる津波を目撃した生徒たちは、そこから更に高台を目指しました。

生徒たちは、「その状況下で最善を尽くせ」の教えを忠実に実践し、大津波から命を守り抜いたのです。

「率先避難者たれ」

「まず自分の命を守り抜くことに全力を尽くせ」

人間はいざという時、なかなか逃げるという決断ができない。

津波の場合、避難を躊躇していたら、皆、その犠牲になってしまう。

初動の早さが、功を奏すのである。

自分が「率先避難者」となり、避難行動をとることによって、「皆の命まで救うことができる」のです。

避難する小中学生を見て、避難を開始した住民も多かったようです。

中学生たちは、また、近隣の保育園から園児を連れて避難する、保育士さんたちを手伝ったりしました。

率先避難者となって、周りの大人、子供たちの命までも救ったのです。

地域の言い伝え「津波(命)てんでんこ」の教えとは?

私は、八戸市の出身なのですが、八戸の方では、「今日は夕飯、てんでごでに食べるべ。」とか、「てんでに食べるべし。」というように、「てんでごで」「てんで」という語をよく使います。「各自ばらばらで」「各々、めいめいで」という意味です。

三陸地方では昔から「津波起きたら命てんでんこだ」と伝えられてきたと言います。「津波はまず各々が逃げることが大切」という行動規範が浸透していたと言います。

「津波てんでんこ」を標語化したのは、岩手県大船渡市の津波災害史研究家である山下文男さんです。

山下文男さんによると、

~手をつないで避難していた母子3名が、祖母がすでに避難していたのにも関わらず、祖母の家に立ち寄ったため、わずかな時間差で命を落とした。避難していることを知らずに寄って、尊い命を落とした。~

という、「津波被害の象徴的な悲劇」から来るものだと述べています。

津波の時は、てんでばらばらに逃げないと、家族や地域が全滅してしまうという教訓のようです。

いのちをつなぐ未来館より

釜石のお父さんやお母さんたちも、

「うちの子は、津波が来たら、僕は絶対に逃げるから。と、普段から言っていました。」

「私も、うちの子は津波が来ても、絶対に無事に逃げている、と信じて逃げました。」

と話しています。

「津波てんでんこ」の教えが、子供を介して、大人にまでちゃんと行き届いているのです。

「津波てんでんこ」とは、

1⃣ 災害時の行動予定(プラン)をあらかじめ考えて、

2⃣ 互いに共有しておくこと。

1⃣2⃣を唱えた防災思想であり、

3⃣ ばらばらに自分だけでも逃げる

というのは、意志を共有することによって、互いを探して共倒れすることを防ぐ」ための「約束事」であるのです。

つまり、標語の意図は

「他人を置き去りにしてでも逃げよう。ということではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐのが目的である。」

と山下文男さんは述べています。

「てんでんこ」の語呂よい響きが手伝って、他人にかまわず逃げろという、利己主義だと誤解を受けやすいようですが、「津波てんでんこ」は、それとは違います。

津波のスピードの速さも、「津波てんでんこ」は物語っていると思います。

東日本大震災では、地震発生から、3mを上回る津波来襲までの時間は、概ねたった30分!

「30分以内に、安全な高台に避難しなければ、命を奪われる」

各々てんでんばらばらに高台に逃げなければ、間に合わないと私は思うのです。

そして、戻って命を落とすことも非常に多いので、「決して戻らない」という教訓でもあると思います。

これは、「自分が助かれば他人はどうなっても良い」という利己主義とは、全く異なるものであり、誤解しないで、これからも大切にしていただきたいです。

いのちをつなぐ未来館より

「津波てんでんこ」の深淵な意味!

また、「津波てんでんこ」は、奥の深い、理にかなったすごい言葉なのです。

☆「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」という暗黙の了解

でもあると言われ、災害後のサバイバーズ・ギルト対策や人間関係修復の意味が言外に含むと言われています。

京都大学防災研究所教授の矢守克也さんは、「津波てんでんこ」は、次の4つの意味を多面的に織り込んだ重層的な用語であると述べています。

 自助原則の強調(「自分の命は自分で守る」) 津波から助かるため、まず自分の命を守り抜くことに全力を尽くし、てんでんばらばらに素早く逃げる。

 他者避難の促進(「我がためのみにあらず」) 素早く逃げる人々が周囲に目撃されることで、逃げない人々に避難を促す。

③ 相互信頼の事前醸成  大切な他者と事前に「津波の時はてんでんこをしよう」と約束し、信頼しあう関係を深める。

④ 生存者の自責感の低減(亡くなった人からのメッセージ) 大切な他者とてんでんこを約束しておけば、「約束しておいたから仕方がない」と罪悪感が減る。

「津波てんでんこ」は、深淵な、理にかなった用語なのです。

「津波てんでんこ」の未来

この言葉を提唱した山下文男さんは、さらに、

4⃣「自分たちの地域は自分たちで守る」  緊急時に災害弱者(老人や障害者)を手助けする方法などは、地域であらかじめ話し合って決めておく。

という主張も込めている。と述べています。

災害時の行動予定(プラン)を地域ぐるみであらかじめ考えて、共有しておけば、

地震発生から30分以内に、老人を40m以上の高台に移動させるということも、最新のテクノロジーなども駆使しながら、可能になってくるのではないでしょうか。

おわりに

鵜住居小学校と、釜石東中学校は、町の中心の高台に建て替えられていました。新しく、津波避難場所にも指定されています。

新しく建て替えられた鵜住居小学校・釜石東中学校
新しい津波避難場所に指定された鵜住居小学校・釜石東中学校
鵜住居小学校・釜石東中学校に向かう正面階段

鵜住居小学校・釜石東中学校に向かう正面階段が、地域の命の階段に見えました。

釜石市は、つらかったでしょうが、一方で生じた悲劇と正面から向き合い、後世のために、情報を開示してくださっていて、心動かされました。「語り継ぐ」だけではなく、「揺れたらただちに高台へ避難する」という行動を何度も何度も実践し、環境も整備し、「当たり前の行動」になって、生活の中に深く浸透していくように。という強い意志を感じ、また、二度と同じ悲劇を繰り返さない。という強い意志を感じ、胸が熱くなりました。

発生が近いと想定されている、南海トラフ地震の地域、静岡~紀伊半島~四国~九州太平洋側沿岸部の方たちも、前回の津波から75年ぐらい、相当時間が経っていると思いますので、この東日本大震災からの学びを、心に留めて、津波に備えてほしいなと、思いました。

下記写真は、「鵜の郷交流館」で食べた「牡蠣そば」です。牡蠣のだしが濃くて、美味しかったです。

牡蠣そば

皆さんも、鵜住居へ是非、行ってみてください。