義経様は日本中央の碑に立ち寄って短歌を残していた!
源義経様は、平泉で自害したことになっていますが、宮城県・岩手県以北の伝承では、死んだのは、義経様の従弟で、影武者を引き受けてくれた「杉目太郎行信」様。義経様は、その1年も前に平泉を出て、海岸伝いに北海道へ向かっていたと言われています。
日本中央の碑は、青森県東北町、千曳駅の近くにあり、坂上田村麻呂(758~811)が征夷の折、弓の筈で「日本中央」と書き記したものと伝えられています。
日本中央の「日本」は「ひのもと」と読み、みちのくから更に北海道へと続く蝦夷の国、中央政府の支配の及ばない地。「もう一つの日本」であって、東北町がその中央付近であったと考えられています。
そして「ひのもと」というもう一つの日本は、660年代、満州の北東部または朝鮮の北部を国境としていて、義経様はこの「ひのもと」を意識しておられたのか。
この日本中央の碑に、北海道へ向かう途中の源義経様が立ち寄って、短歌を残していることは、あまり知られていないようなので、ご紹介します。
~三熊野のつづく小山のふみ石を見るにつけても都こひしき~
この歌の筆跡はこの村に残っていたようですが、隠されたのか、紛失したのか、南部藩の捜索にも出てこず、この一連の事は「八戸見聞録」や「向鶴」に記されています。
義経様の北行道中の痕跡を見ていくと、
☆ 都をとても恋しがる。懐かしがる。
という特徴が随所に見られます。
八戸に逗留中も、京の都を懐かしがって、京に所縁の「町名」を付けたり、葦と萱野原だった八戸を京の都に見立てて淡い「義経京構想」を思い描いたりしていました。
この歌も義経様の歌!?
また、この歌をご存知ですか?
~われこの天命を受けたれば、死すとも今は憾みなし。ただ故山に帰りたし~
これは、死に際し残したと伝えられている、成吉思汗の歌です。
本当に意味深な言葉ですね。
「ただ故山に帰りたし」
「この天命を受けたれば」「今は憾みなし」
う~ん、かなり義経様と重なります。
成吉思汗(ジンギスカン)という名前は京都で流行した文字遊び!
成吉思汗が1206年の第2次即位の頃、モンゴルには文字というものはなかったそうですが、テムジン(前身の名前)は自らを「成吉思汗」と名乗ったそうです。自らの意思で、この名前をこの漢字を選んだと考えてよいそうです。
義経様は京都で検非違使をしていたとき、公卿との付き合いがかなりあったといわれていますので、当時公卿の間で流行していた文字遊びに、ある程度は通じていたものと考えられています。
義経様がそういう知識があったということは「成吉思汗」という自ら選んだ漢字に、何らかの思いをこめて作ったと考えるのはおかしいことではありません。
静御前が、義経様に送ったメッセージと言われている歌があります。
~しずやしず、しずのおだまきくりかえし、
むかしを今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪ふみわけて
入りにし人の あとぞ恋しき~
「成吉思汗」という名前は、和漢両様の読み方で、静御前の歌への見事な「返し」となっていることは、皆さんご存知でしたでしょうか?
「汗」は分解すると「さんずいに干」で「水干(すいかん)」と読むことができ「水干(すいかん)」とは白拍子の衣装のこと。つまり静御前を指しています。
漢文読みをすると、
「成吉思汗」=「吉成りて、水干を思う」=「吉野山の誓い成りて、静(しずか)を思う」
と読めますし、
万葉仮名として読み下せば、
「成吉思汗」=「なすよしもがな」
「(昔のように)そうなればよいのにな」という意味になります。
これは「こじつけ」とは決して言えない。高尚なレベルのものに感じます。
義経様は大陸へ渡っている!
北海道のアイヌ民族の間に、こんな言い伝えがあります。
~「昔、ホンカン様は黄金の鷲を追って、自分の祖先の往来した海路を渡り、ポンルカへ行った。そこは大きな川のあるクルムセ国です。」~
また、ペンリウク翁は、次のように話したといわれています。
~「判官は、後に樺太に攻め入り、アイヌ民族に仇する酋長を殺し、そこよりクルムセの国に渡った。確かクルムセ国とは、昔の粛慎を称する名のこと。」~
粛慎とは、渤海国、靺鞨、高句麗北東部などの中国東北部~ロシア沿海部のことです。
義経様は「日本中央の碑」に立ち寄って、都を恋しがる短歌を詠みましたが「日本(ひのもと)」というもう一つの日本の国境、つまり満州の北東部または朝鮮の北部を意識しておられたのか。
往古から平泉政権の「環日本海北方交易」で取引のあった地か。
上記地図のロシア沿海州、ナホトカの北に「パルチザンスク」という都市があるのがわかりますか?
ここはその昔「蘇城(スーチャン)」と呼ばれていて、古い正方形の城があるのですが、土着民のタモー族の伝説では、日本人の武将が築いた城だと。日本の武将が危険を避けて本国を離れ、ここで蘇生したと伝わっており、この伝説から「蘇城」と名付けられた。といわれています。
調べていたら「パルチザンスク」市(旧蘇城)の現在の市章が出てきてびっくりしました。
真ん中のマークはまさに、源氏の家紋「笹竜胆」!!に見えるのは私だけでしょうか。
おわりに
「蘇城(スーチャン)」の土着民タモー族の間では、日本式の正方形の城を築いた日本の武将は、その城を娘に譲って、部下を連れて奥地に行き、高位の大将になったと語り継がれているそうです。
このタモー族は、アイヌ民族なのではないかと推測されています。
義経様=成吉思汗という線がかなり濃厚です。
義経様は、悲劇の武将なのではなく、私たちに偉大な希望と光をくれる大偉人。
讃えても讃えきれないほどのミラクルを達成した大成功者。
そんな見方に変わってほしいですね。
その際には国民栄誉賞をあげてほしいです。(笑)
【参考】八戸の義経伝説がリアル!
https://mckey.blog/hachinohe-yoshitsune-densetsu-choumei
【参考】義経の目的地は北海道の厚真!!