八戸の義経伝説がリアル!数多くの「町名・名字」が義経逗留を物語る!!

「伝説や神話の中に真実は隠されている。」ということを聞いたことはありませんか?

ことさら、岩手県以北に数多く残されている義経北行伝説に関して、その全てを「判官びいき」として、ひとまとめにされ、歴史にないがしろにされていることに、大きな違和感を感じます。

それだけ具体的であるのです。

義経様は、平泉で自害したことになっていますが、死んだのは、義経様の従弟で、影武者を引き受けてくれた「杉目太郎行信」様で、

義経様は、その1年も前に、平泉を後にし、海岸伝いに北へ向かっていた、と言われています。

岩手県久慈市にある「諏訪神社」を訪ねた際に、頼朝方の畠山重忠様の感情、「義経様への敬意」と「鎌倉の命令への絶対」の気持ちの板挟みで揺れ動く強い感情が残されていることに驚き、義経北行伝説は真実である。と確信したのですが。

今回は、青森県八戸市。

八戸の地には、今も語り継がれる義経北行伝説が色濃く残っています。

そして、義経様一行の八戸滞在時に由来する、「地名」や「名字」や「固有名詞」が数多く残されていることに驚き、これはやっぱり真実であるな。と自信が確信に変わりました。(すでに確信してました 笑)

義経様一行は、 八戸の地に一旦、落ち着いたと言われています。

そして、身をひそめながらも躍動する、生き生きとした姿を見せています。

人柄や性格も、垣間見えるので、

皆さんも楽しみながら、想像しながら読んでいただけると嬉しいです。

(私の場合、義経様=菅田将暉さんになっています。笑)

土地に残る「町名/名字」は歴史を物語る!

「類家稲荷大明神縁起」という古文書には、今から830年以上前の八戸の地相が記されており、義経様一行の八戸での出来事から出た多くの地名、名字、神社名が記されています。

そして、現在も残っています。

それでは岩手県久慈市に残る「源道」の地名からスタートさせてください。

🌳 源道(げんどう)

北三陸ヒストリアHPより
北三陸ヒストリアHPより

「岩手県久慈市源道」

という地名が現在も残されています。 この地名は義経様の事跡から出た地名です。

岩手県立久慈病院の東側にある地名で、平泉を奥州討伐の1年前から逃れていた義経様一行は、久慈で頼朝が差し向けた追手、畠山重忠様と遭遇し、その矢をかろうじて振り切り、この「源道」を通り、左峠を越え閉伊口を通って、侍浜から海路、八戸へと向かった。と言われています。

「源道」とは「源氏(義経様一行)が走り抜けた道」というのが地名の由来とされています。

「源道」付近には義経様が矢の的となったことから、かつて「的場」という地名もあったようです。

※この話は、前回の「義経北行伝説は真実!」で取り上げました。

かつての義経様の部下、畠山重忠様が、痩せこけた義経様に同情して、「義経様に当たるなー!」と願って矢を放ったところ、その矢ははずれ、松の木に刺さった、その場所が、地名になったものです。

刺さった矢の穂先は、諏訪神社の御神体になっています。

【参照】

🌳 源治囲内(げんじかこいない)

「青森県八戸市白銀町源治囲内」

という地名が現在も残されています。この地名も義経様の事跡から出た地名です。

源義経様一行は、八戸の種差海岸に上陸した後、白銀という集落に有力者を頼り、しばらく潜伏したといわれています。

現在、その地には三嶋神社があり、「源治囲内」の地名が残っています。

また、ここの程近くに、

「清水川」または「白銀清水」と呼ばれる今も町内の共同洗い場として使用されている湧水地があるのですが、

日本一短い川「清水川」

そこをご利用されていた、ご近所の方から、この湧水地の数軒先の瓦屋根のお家は、「弁慶が滞在した家だ。」と教えていただきました。

行ってみると、その瓦屋根のお家には、「浜浦」という表札があり、「法官家」と並んで、義経様一行をかくまったお家でした。

浜浦家

「浜浦家」は昔から、「半七屋」という屋号を持ち、裕福な暮らし向きだったようです。

義経様一行は、山伏姿をしてやってきたそうですが、ご主人は、もしかして、平泉から脱出してきた義経様一行ではないか、と直感したそうです。

そんな表情はおくびにも出さずに、一行を招き入れ、歓待してくれた、そんなご主人の人柄を見て、義経様は自ら正直に名乗ったそうです。そして改めて感謝の意を表したそうです。

それを聞いて、ご主人も、「実はそうではないかなと思っておりました。御迷惑になってはと思い、言い出せませんでした。」と、正直に話し、打ち解けたようです。

一行が立ち去る時、

お礼として「槍や太刀」を渡されましたが、第二次世界大戦後に進駐軍に接収され、義経様がお礼として一通の「証文」のようなものを書き残して行かれたので、巻物にして保管していましたが、昭和36年白銀大火で焼失してしまいました。

その証文の内容が面白くて、

「領主は粟三升といえども取り立てるべからず。自分が世話になった分、面倒を見てつかわせ」

不本意にも世を忍ぶ身の上になり、歯がゆいながらも、現状に悲観しない、大雑把な明るさ、みたいなものを感じるのは私だけでしょうか。

当時の義経様の身の上での、「最大限の感謝の意」だと思われます。

今も「白銀町」界隈で、義経様一行の滞在が語り継がれていることを体感し、更に驚かされました。

🚢法官(ほうがん)という「名字」

義経様はこの地を離れる時に、義経様一行をかくまうことに貢献し、世話になったこの地の有力者に感謝の印として、「今後、判官(ほうがん)と名乗るがよい」と申し渡したと言われています。

現在の「法官(ほうがん)」家です。

今でも八戸では、時々聞かれる名字です。

元々は「判官」という漢字でしたが、恐れ多いということで、「判官(ほうがん)」から「法官(ほうがん)」に漢字を変えたと言われています。

全国では、八戸市におよそ60人、北海道函館市におよそ10人しかいない名字です。

全国を見ても、「判官」と書いて「ほうがん」と読む名字はありませんでした。

八戸市の中でも、大半が、白銀町に分布している名字ですので、「八戸市白銀町」が発祥地、「源治囲内」がルーツと言えるでしょう。

🌳 館越山(たてごしやま)

前方左 階上岳

「青森県八戸市中居林館越山」

という地名が現在も残されています。 この地名も義経様の事跡から出た地名です。

義経様一行は、源治囲内で潜伏した後、新井田川を少しさかのぼって、現在「館越山」という場所に住居を構えたと言われています。

“北の方”様が懐妊していたので、しばらくここに仮館をこしらえたのです。

この地は地の利が悪く、遠望もきかないので、もっと遠望の利く良い場所を選ぶ必要がありました。

確かに小高い山ですが、町真ん中で、南に横たわる、階上岳から丸見えですし、西側も、少し行くと標高が高くなっていく地勢ですので、もっと落ち着ける場所が欲しかったのだと思います。

”北の方”様の体調を気使って、急遽、留まったような様子もうかがえます。

家臣を四方に派遣し、遠望の利く地を探させ、馬淵川の北方で遠望の利く場所、八戸の「高館」を選んで、居宅を造ることになったのです。

人々には「高館の御所」と呼ばれました。

高館に引っ越してから、もとの館があったこの場所は、義経が館を引っ越した、という意味で、「館越」と呼ばれるようになったのです。

🌳 長者(ちょうじゃ)

「青森県八戸市長者」

という地名が現在も残されています。 これも義経様の事跡から出た地名です。

義経様は、平泉で信頼の厚かった「藤原秀衡」様の死後、泉三郎忠衛の重臣、忠衛の母方の叔父である、「板橋長治」様を、義経の家来「喜三太」様と共に、八戸近辺に先行させて、海浜の人目につかない小山に、仮の居宅を建てるよう遣わしていました。

その「板橋長治」様は、八戸の中心部の小高い丘に、柴を回したり樹木を植え、みだりに人が入らないようにし、隠れ家を準備したと言われています。

人々はその場所を「長治山」と呼んだそうです。

長者山

その後、「長治山(ちょうじさん)」が、「長者山(ちょうじゃさん)」に訛っていき、その周辺を「長者(ちょうじゃ)」と言うようになったのです。

八戸訛り~。

ここで、もう一つ読み取れるのは、義経様一行の中に、「泉三郎 藤原忠衡」様が居た。ということです。

🌳 糠塚(ぬかづか)

「青森県八戸市糠塚」

という地名が現在も残されています。これも義経様の事跡から出た地名です。

前述の「板橋長治」様が、長者山に来た時、山の麓には、百姓やら、粗末な小家などが、ぽつぽつあるものの、田んぼは無く、茅が生い茂る野原と、葦の湿地のみだったそうです。

何より飯米がないので、三戸町へ行って、籾を買い、畑牛につけて来させて、米にして、その米糠を捨て置きなされた場所を「糠塚」と言うようになりました。

現在でも「糠塚」と言う地名が長者山の麓に残っています。

🌳 板橋(いたばし)

「青森県八戸市糠塚板橋」

という地名が現在も残されています。これは前述の「板橋長治」から出た地名です。

「板橋長治」様は、長者山の麓に住んだと言われています。その地を「板橋」と呼ぶようになり、昔は「板橋村」だったようです。

今でも「長者山」の麓に残っています。

🌳 櫛引(くしびき)

「青森県八戸市櫛引」

という地名が現在も残されています。これも義経様の事跡から出た地名です。

前述の「板橋長治」様とご家来衆が、三戸町へ行って、籾を買い、畑牛につけて来させた際に、その荷物運びをした牛を預け置く小家が、ようやく2、3件あった場所を「牛ひき村」と呼びました。その後「くしひき村」と改められ、現在は「櫛引(くしびき)」となって、残っているのです。

いや~訛ったね。

🌳 藤ケ森稲荷神社(ふじがもりいなりじんじゃ)

1191年、義経様は八戸に、京都の「藤森(ふじのもり)稲荷大明神」を勧請しました。勝運・学問と馬の神社のようです。

その地を「藤の森」と称しましたが、現在は「藤の森」が「藤ケ森」に訛って残っているようです。

🌳 柏崎(かしわざき)

「青森県八戸市柏崎」

という地名が現在も残されています。これも義経様の事跡から出た地名です。

義経様は、高館御所より見渡して、馬淵川の東の野原、茅の野原、葦の湿地の場所をご自身が勧請した「藤ケ森稲荷神社」の西に当たり、京の都と同じであるので、後々、人里となれば素晴らしい、と言っていました。

その野原の東の州崎に、大きな柏の木が二本あり、義経様はそれを目印とされました。そして地名を「柏崎」と名付けられました。

その地名が現在に至っています。

🌳 類家(るいけ)

「青森県八戸市類家」

という地名が現在も残されています。これも義経様の事跡から出た地名です。

義経様は、八戸滞在時、日頃信心している京都の「藤森(ふじのもり)稲荷神社」を勧請しました。

祭りを執行する時は、高館の御所から片道約5km通われて、自ら執り行ったようです。

その時、高館からの往来も大変だろうということで、義経様をはじめとして、家来たちは銘銘に、茅葺の小屋を建て、2、3日滞留したと言われています。

義経様はその小屋を「家に似ているもの」という意味で「類家」と呼び、地元民を「類家の者」と称したそうです。

こうして「類家」の地名が出来たと言われています。

🌳 帽子屋敷(ぼっちやしき)

現在は、「青森県八戸市類家二丁目」付近。住居表示が変わる前は「類家帽子屋敷」という住所だったようです。

義経様とそのご家来衆が、京都から勧請した「藤ケ森稲荷神社」に、高館からやって来て、参詣した折に、装束烏帽子や狩衣などを置くところがなかったため、お宮の外に小屋を立てて、それらを架けておいたことから「帽子屋敷」と呼ばれたと言われています。

現在は、芭蕉堂公園になっています。

🌳 藤ケ森(ふじがもり)

「青森県八戸市中居林藤ケ森」

という地名が現在も存在しています。

義経様が京都から勧請した「藤ケ森稲荷神社」は、「類家」にあるのですが、「類家」の隣、「館越山」の麓に、「藤ケ森」という地名が残っています。

藤ケ森稲荷神社が、一時、「上の方の畑」に奉遷されたことがあったようなのですが、その場所が、「藤ケ森」として残ったか、

もしくは、「館越山の麓」にあることから、源義経の夫人から呼称した「夫人が森」。夫人を守るという意味の地名とも、考えられます。

義経様が館越山に来た時、”北の方”様は懐妊していたと言われています。

🚢「榊(さかき)」という名字から「地名」へ

「階上町道仏榊」

という地名が今もあります。その漁港を「榊漁港」と言っています。これも義経様の事跡から出た地名です。

階上町は八戸のすぐ南隣で、階上岳が地域の人々に親しまれています。

榊家の先祖は、義経様が「藤ケ森稲荷神社」の神事を自ら執行する時に、小間使い役を務めました。

義経様が、「何か木を持ってまいれ。」とおっしゃられたので、早速、近辺より木蔦の枝を葉ごとそのまま取って差し上げたところ、義経様はとてもお喜びなされたので、その後、気にかけて、木に着いてるバッタごと青木を置いたり、差し上げていたところ、だいぶお喜びになって、

それ以来、名前を呼ばず、「榊」、「榊」とばかりお呼びになられたのを子孫の名字にそのまま使用させて頂いて名乗っているそうです。

この「榊」氏が、生業のために南浜に移り住み、居住した所までも、「榊」という地名になっているのです。

義経様のご性格というか、大雑把な明るさみたいなものが、感じられて面白いですよね。

実は、「類家稲荷大明神縁起」はこの「榊」家の老翁、法名浄円という人からその家伝を聞いて、書かれたものなのです。

🌳 小田(こだ)

「青森県八戸市小田」

という地名が現在も残されています。 これも義経様の事跡から出た地名です。

義経様は、鞍馬の毘沙門をご信仰なさっていて、小さい毘沙門の尊像をご持参なさっていました。

高館の御所の東の山下に、

高館の御所は、この裏山(高館山)の上にありました。

小社(毘沙門堂)をご建立されて、それに、移し置かれ、加護や救済を祈り、信仰されました。

毘沙門堂

義経様は、その前通りに、沢から流れる水を利用し、小さな田んぼを自ら楽しみに開かれ、イネを植えることを教えたと言われています。

その場所を「小田」と呼ぶようになり、現在に至っています。

また、「小田」には、平安時代の後期、天喜年間(1046~1057年)から、義経様の先祖、鎮守府将軍だった「源頼義」様が陸奥国を治めるために「八幡神」を勧請して創建した、八幡宮もありました。

義経様がご持参された毘沙門尊像の体内には、「源頼義」公が祀った八幡神の尊像が入っていて、動かすとカラカラと音がするとのことです。

このため、明治の神仏分離令までは「小田毘沙門堂」と呼ばれていましたが、その後「小田八幡宮」となったと言われています。

「義経堂」もあります。

「義経堂」  棟札の文字が消えかかってます。

また、義経様が、弁慶や家来と共に奉納したという「大般若波羅蜜多経六百巻の写経」と「経箱」が奉納されています。

経文の筆跡を研究すると、宮古の「黒森山」から出た般若経の筆跡と、同一のものがあり、

「類家稲荷大明神縁起」にも、「徳城寺の縁起を書いた古文書」にも、義経弁慶一党が、「大般若波羅蜜多経六百巻の写経」を毘沙門天に奉納したということが明記されています。

まず、間違いないでしょう。

さらに、私が感動したのは、小田八幡宮の鳥居の奥、入母屋造の「八脚門」の蟇股には、

八脚門
八脚門(表) 中央に蟇股
蟇股(表) 「笹竜胆」
蟇股(裏)  「源氏車」

表には笹竜胆(源氏の家紋)の彫刻が。裏には源氏車(源氏の家紋)の彫刻が。施されていて、テンションが上がりました。

🌳 龗神社(おがみじんじゃ)

義経様一行が八戸滞在中、一つの不幸が起きたと言われています。それは”北の方”様の死です。

それは、「久我大臣の姫宮」と言われています。

「八戸祠さがし」によると、それは、「元久年中丑の四月末と申し伝え候なり。」と記されていますが、聞書によるものなので、「建久」が「元久」と聞こえたのではないかと考えられます。

「建久」年間の丑の年を調べてみると、「建久四年」がそれに当たり、西暦にすると「1193年」に”北の方”様がご逝去されたと考えられます。

「元久」年間の丑の年になると、「元久二年」がそれに当たり、西暦にすると「1205年」になります。頼朝方の南部光行様の「青森県三戸郡南部町」入部は、1191年とも、1195年とも言われていますので、南部光行様自身は、その後、奥州にはほとんど赴かず、鎌倉に在住したと言えども、

1205年まで、義経様一行が、八戸に在住していたとは、考えづらいです。

”北の方”様は、産後の肥立ちが悪かったとも言われています。

これも、「館越山」に仮館をこしらえた時、北の方は懐妊していた。ということに繋がってきます。

ご死骸を「京ケ崎」に土葬なされ、ゆくゆくは、この地の守護神になりたまえと、柴木を立て置いたところ、後に、奇怪なこと(大きな災害)がたびたび起こったので、「報霊大明神」として、崇め祀ったのが、「報霊山(法霊山)龗神社」の起源なのです。

「龗」という語を調べてみると、「於加美」とか「於箇美」と同じで、”女の神様”を表す言葉のようです。

主婦のことを「おかみさん」と呼びますよね。これは主婦の尊称であって、「龗」,「於加美」,「於箇美」から来ているのです。

北の方”様を「京ケ崎」の丘に葬って、「ゆくゆくはこの地の守護神になりたまえ」とは「ゆくゆくはこの地の龗となりたまえ」ということでしょう。

もう一つ、女の尊称として、源平時代の常盤御前、巴御前、静御前などに見られる「御前(ごぜん)」がありますが、

龗神社は元々は、「御前神社」(みさきじんじゃ)とか「三崎神社」(みさきじんじゃ)と称されていたと、向鶴という本や、八戸見聞録にも記されています。

”女の神様”が祀られているのは間違いないようです。

さらに、龗神社には、”北の方”様(久我大臣の姫宮)が使用したと言われている手鏡が所蔵されています。

八戸における「義経京」構想

義経様は、高館御所より見渡して、馬淵川の東の野原、茅の野原、葦の湿地の場所は、後々には人里となるであろう。と言いました。

その東に当たる場所に稲荷の社を建てた事は、誠に良いことだ。

この野並びに近辺、人家となったならば、見渡す所に何の神も未だ一社も見あたらない。この稲荷の将来は、この一郷の総鎮守となるに違いないと。

また、この野が人里となれば、稲荷の社より西にあたる。これは京の都と同じになるので素晴らしい。

京の都は藤森大明神の西に当たるので、この野を今よりは「京ケ原」と名付けようと言われました。その後、現在の八戸市中心商店街、旧城下町部分を「京ケ原」と呼んだと言われています。

「高館の御所」から「藤ケ森稲荷神社」までは、直線にすると、4.7km。約5kmです。

馬を速足で走らせると、(時速13km~15km)30分~40分かかり

馬を駆足で走らせると、(時速20km~30km)15分~25分かかります。

当時の、「車社会」ならぬ「馬社会」。

今とそれほど変わらないくらいの移動スケールにも、驚かされます。

高館の御所を北の中央に置き、

南に約5km、東に約2.5km、西に約2.5km、面積約25km2 の平安京のような「義経京」構想をこの「八戸」で、少しの間でも、抱いていたのではないでしょうか。

感動します。

実際、平安京は、南北約5.2km,東西約4.5km,面積約23.4km2の広さだったと言われています。

平安京の大きさ、規模、寸法、距離感が義経様の体に染みついていたのではないでしょうか。

5km四方という大きさは、「馬」にも理にかなった大きさで、

馬は、1回に速足を継続できる時間は、およそ1時間であるのに対し、5kmは、30分~40分で到着できる距離。

1回に駆足を継続できる時間は、およそ30分であるのに対し、5kmは、15分~25分で到着できる距離。

馬にとっても、5kmは、快適な距離なのです。

菅田将暉さんが扮する「義経様」が高館山から馬淵川に向かって、広い低地を颯爽と馬を走らせている光景が目に浮かんできます。 (笑)

  (前方)高館山  (手前)馬淵川

🌳 ほたる崎

現在では、「八戸市河原木八太郎」近辺。

高館より東北の州崎とその下通り、みな谷地にて連綿と続いているから、五月頃から蛍火がかなり辺り一体に行き渡って風流であると。義経様はそこを「ほたる崎」と名付けられました。

🌳 京ケ崎(きょうがさき)

現在の「八戸市内丸、旧八戸城内」

義経様は、京ケ原の北の州崎を「京ケ崎」と名付けられました。

🌳 三崎(みさき)

「京ケ崎」と「柏崎」と「八太郎崎」

世間では「三崎」と言ったそうです。

八戸は平安時代、ほぼ葦の湿地、茅の野原。「崎」がいっぱいあったことがわかります。

八戸における「義経カモフラージュ」

八戸の龗神社に所蔵されていた「類家稲荷大明神縁起」は、義経様の生き生きとした姿を描き出している反面、やはり世を忍ぶ身の上、義経様のことを書いていても、「義経」という名を用いるのをはばかって、

「清和源家の貴族」と書いています。例えば、その一文として、

「・・・この稲荷は、みやこの藤の森の稲荷を御勧請、清和源氏の貴族、建久年中これへ勧請なさるる由、申し伝え候なり。その由来は、清和源氏の御貴族、京に御在住ありて、京都御守護の御人なるが、人の讒言(=そしりごと)によって御兄弟の御仲不和にならせ給い・・・・」

という感じです。

「源治囲内」でも、おそらく、元は「源(氏)囲内」だったのを「源(治)囲内」へと漢字を変えていたり。

「法官」という名字も、「(判)官」から「(法)官」へと漢字を変えていたり。

「藤ケ森稲荷神社」も、京都の「藤森(ふじのもり)稲荷大明神」を勧請したことが、義経様の影を匂わせてはいけないというので、あえて、「藤ケ森(ふじがもり)稲荷」と、伝えていったのかもしれません。

もしかしたら、

当時の八戸の人々が、いつ鎌倉から軍がやってくるかもしれない、と警戒して、義経様の影を匂わせる言葉にカモフラージュをかけていたのではないか。

と想像されます。

おわりに

小田の義経伝に関連して、一人の八戸の偉人をご紹介したいのです。

民権運動を推進した八戸初の受洗者「源 晟」です。

八戸藩士で祐筆を務めた河原木弥兵衛の子に生まれ、藩の文武講習所で学問を修め、東京遊学を経験後、明治4年(1871年)に弁護士の前身である代言人を職とし、翌年、戸籍編成の際、実家に残る義経伝説にあやかり「源 晟」と改名しました。

最初の名字が「河原木」なので「八戸市河原木」のご出身と考えられます。

「河原木」は「小田」のすぐ隣、すぐ手前に位置している場所で、ご実家にもっと赤裸々な知られていない義経伝があったのではないか。と考えられます。

八戸で、義経様は身をひそめながらも、生き生きと躍動されている姿を見せておられましたましたが、

”北の方”様が亡くなられてしばらくして、八戸を去ったと伝えられています。

「鎌倉から再度、義経追討の軍勢が八戸にやってくるらしい」という噂が広まっていたこともあって、「八戸に住む人たちに迷惑をかけてはいけない。やはり、自分は当初の目的通り、蝦夷地(北海道)へ向かうことにしよう。」と、決意し、程なく、「八戸」を後にしたと伝えられています。

義経様の「八戸」での4年間ぐらいの逗留生活は、身体の調子を崩した”北の方”様を思いやる、「”北の方”様ファースト」によるところが、大きかったのではないか。と想像されます。

義経様、お優しいですよね。

830年以上も、八戸に残る「町名」「名字」「固有名詞」は、歴史の本当の姿を物語っているのです。